天目(てんもく)茶碗は、今からおよそ八百年前、鎌倉時代に、中国(当時は宋の時代)浙江省の天目山の禅寺に修行した僧侶によって我が国にわたってきたもので、そこから「天目」の名がうまれました。実際には現在の福建省建陽市あたりで作られたものだと分かっています。
天目茶碗は、鉄分を多く含んだ黒い釉薬(黒釉)を使った茶碗で、天目形(てんもくなり)という形状に特徴があります。黒釉の表面は無地であることがほとんどですが、時に、焼成中の窯変(ようへん)によって、大変に美しい文様が現れることがあります。その文様によって、油滴(ゆてき)、曜変(耀変、燿変とも)、禾目などと呼ばれる天目茶碗があり、大変珍重されています。
これらの天目茶碗の制作は困難を極め、土と黒釉の成分、焼成温度と時間など、それぞれがある一定の奇跡的な条件を満たしたときのみ、偶然にも、見事な窯変が得られるのです。
孫建興先生が復元した「油滴天目茶碗」もそのひとつで、水面に油の滴(しずく)を落としたような文様(上の円中写真)があることから、そう呼ばれています。そして、現在の日本の国宝に指定されている5点の天目茶碗のうち、4点までが中国・建窯の作といわれています。
建窯(けんよう)は、現在の福建省建陽市を中心とした窯跡で、1935年アメリカの調査団の発掘によって、昔ここで油滴や曜変天目が焼かれていたことが明らかになりました。
建窯では、唐の末頃には青磁を焼いていたようですが、中国の陶芸史に現れるのは、政変により都が南に移ってきた南宋(1127-1279年)頃のごく短い期間だけだったようです。その時期に、油滴や曜変といった天目の最高傑作が作られていたのです。現存する天目茶碗の逸品が、青磁や白磁のそれに比べて稀少なのは、製法の困難さもさることながら、そういった建窯の歴史も大きな要因となっています。その後、建窯は窯場としての賑わいをなくし、天目茶碗そのものも中国の歴史から忘れ去られようとしていました。
近年、建窯の発掘、研究がさらに進み、現在では、天目の復元も意欲的に進められています。鎌倉時代、中国から渡ってきた天目茶碗は、我が国の陶芸界に大きな影響を与え、瀬戸天目や黒唐津といった陶磁器も生まれました。そして冒頭の林恭助氏による復元です。
そして、このたび和美三昧でご紹介するのが、孫建興先生が長年の研究のもと作り上げた「油滴天目茶碗」です。天目茶碗の故郷・建窯で、同じ土、釉薬で作られた、まさしく本物と呼ぶにふさわしい逸品です。
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