俳画帖「三愚集」より
小林一茶・句 夏目漱石・書 小川芋銭・画
「やせがえる」
 
木版画複製掛軸 限定350部

“句は一茶、画は芋銭、書は漱石、
  それ故に三愚集と言う”『三愚集』序文より
一茶俳句に魅了された巨匠たちによる
 近代芸術史に輝く“奇跡”の共作が
当時の技を伝える名工の木版画で
 新たによみがえる軽妙洒脱な俳画幅の傑作
[仕様・体裁]
木版画制作
 彫師:木島重男(四代大倉半兵衛の弟子)
 摺師:板倉秀継
 版数 六版六色摺 
 用紙:越前生漉き奉書
紙寸法 17x22cm(各)
軸寸法 118x54.5cm
表装:三段表装茶掛仕立
天地:利休紬
中廻し:小花地丸花紋 
一文字・風帯:二重蔓牡丹唐草

企画・制作 毎日アート出版株式会社
発行 毎日新聞社 
税込価格 176,000円
 
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『三愚集』について               中村敦子(一茶記念館 学芸員)
 『三愚集』は、俳人秋元梧楼が一茶俳句の中から二十七句を選び、夏目漱石がその一茶俳句を揮毫し、小川芋銭が俳画を描き加えたもので、大倉半兵衛の木版画により出版された。書名は、漱石によって、一茶・芋銭・漱石の三愚人の作として『三愚集』と銘々されたもので、発行部数が少なかったこともあり、貴重な出版物となっている。
 地元では明治40(1907)年の一茶翁八十年追善法要を機に一茶顕彰がさかんとなり、一茶同好会によって『俳諧寺一茶』『七番日記』が出版され、多くの一茶俳句が世に知られるようになった。この出版を企画した秋元梧楼は、これらの出版物によって一茶の人間味あふれる俳句にふれ、師の高浜虚子を介して、明治45(1912)年、漱石に揮毫を依頼した。秋元梧楼は、一茶が度々逗留した千葉県流山市の秋元家の縁戚となり、一時期秋元家の経営を任されたことなどから、五代前の三左衛門(俳号双樹)と一茶の深いつながりを知って、一茶俳句に愛着をもった。交友関係の広かった秋元梧楼が著名人の漱石や芋銭の助力を得て出版にいたったのである。
 今回の複製品は一茶のもっとも有名な句で、『七番日記』文化13(1816)年6月作である。前書に「蛙たゝかひ見にまかる四月廿日也けり」とあり、蛙合戦での小さな蛙への応援歌で、慈愛にみちた俳句のひとつである。
 平成18(2006)年は、一茶一八十回忌にあたり、一茶顕彰がさかんとなって百年目となる。このような時期に、一茶俳句を愛して生まれた作品が再び世に出ることは大変喜ばしいことである。  
「やせがえる」のページ見開き
「三愚集」の初版。
《小林一茶》
江戸後期を代表する俳人。宝暦一三(一七六三)年信州柏原宿(現在の長野県信濃町)に生まれ、文政一〇(一八二七)年同地に歿。通称、弥太郎。十五歳で江戸に奉公に出、転々としながら俳句の道を志す。葛飾派三世の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに俳句を学ぶ。俗語や方言を織り交ぜ、また不幸な境遇からにじみ出る個性的な句は人々の共感を生む。晩年は郷里北信濃の俳諧の宗匠として活躍、信濃町に一茶記念館、千葉流山に一茶双樹記念館がある。

《夏目漱石》
近代を代表する文学者で英文学者。慶応三(一八六七)年江戸牛込に生まれ、大正五(一九一六)年歿。本名は金之助。東京大学卒。松山、熊本で教師をしたあと明治三三(一九〇〇)年イギリスに留学。帰国後東大講師、後、東京朝日新聞社に入社。『ホトトギス』に発表した「吾輩は猫である」、「坊っちゃん」で文壇の地歩を確保。新聞に連載した「虞美人草」が大評判となる。ほかに「草枕」「三四郎」「それから」「門」「こころ」「明暗(未完)」など。

《小川芋銭》(おがわ うせん)
河童や妖怪図など飄逸な水墨の画風で知られる日本画家で、俳人。慶応四(一八六八)年江戸赤坂溜池に生まれ、昭和一三(一九三八)年)茨城県牛久沼畔で歿。本名は茂吉。俳人としての雅号は「牛里」。本多錦吉郎の彰技堂で洋画を学び、また漢画を抱抱斎に手ほどきを受け、のちに独学で自らの画境を築く。また『ホトトギス』などの挿絵でも人気を博す。大正四年平福百穂らと珊瑚会を結成。同六年日本美術院同人。昭和一〇年帝国美術院参与となる。病弱ながら、酒を愛し、旅を重ねる一所不在の画仙として、書や俳句、和歌にも独特の洒脱な風をなした。茨城県牛久市に小川芋銭記念館「雲魚亭」がある。

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