芭蕉、良寛そして山頭火へとつづく漂泊の人生の先駆者 時代を越えて憧憬をあつめる漂泊の歌人・西行 |
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「新古今和歌集」「山家集」など平安時代を代表する歌人・西行は「漂泊の歌僧」「花と月の歌人」などと称され後世の芭蕉、良寛らに多大な影響を与えました。武士として将来を嘱望されていた二十三歳の時、官位や家族を捨て出家し、遁世の道を選びました。出家から入寂までの五十年、西行の生涯は仏道と歌道の修業のための諸国行脚と、ロマンチックで無常観あふれる生涯でありました。一方、能筆家としても知られ、「西行風」と呼ばれる書風は同時代から現代まで連綿と受け継がれています。そのため伝西行とされる書蹟は数多く残されていますが、真筆と確認されているものは三点だけです。 国宝「一品経懐紙」 (京都国立博物館所蔵)は、現存する西行真筆の懐紙としては唯一のもので、法華経にある「薬草喩品(やくそうゆほん)」という章を題に和歌として読んだものです。当時、仏教は宗教であるとともに、教養としての文化的側面も大きく、僧侶でもあった西行(法名・円位)の歌才を遺憾なく発揮した自詠自筆の書です。今回、日本が誇る伝統木版画の技術で西行の筆致を再現、原本にある古色や裏写りはあえて避け、西行の歌と筆遣いをご堪能いただけるよう摺り上げました。また、表装も国宝に色目を合わせ、落ちついた味わいの京表具の茶掛仕立としました。何とぞこの機会に愛蔵いただきたくご案内申し上げます。 |
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西行(円位)筆「一品経懐紙」解説 羽田 聡(京都国立博物館美術室) 西行(円位、1118〜90)は平安時代を代表する歌人である。彼は藤原康清と源清経女の子として生まれ、俗名を佐藤義清(のりきよ)といった。鳥羽上皇や藤原実能に仕えたのち、保延六年(1140)十月、二十三歳という若さで世をはかなんで出家した。その知名度ゆえ、五首切や白河切など西行を伝承筆者とする古筆切は数多く存在するが、彼の真筆といえるものは三点しか知られていない。 この懐紙は「一品経懐紙」(国宝、京都国立博物館蔵)に含まれるもので、数少ない西行の真筆である。一品経和歌とは、二十八の章(品(ほん)という)からなる法華経の各品の意味を歌に詠み込んだものをいう。経に関連した和歌を詠むことにより成仏の功徳に預かろうとするもので、法華経信仰のさかんになった平安時代の末ごろからこうしたことが行われるようになった。 治承四年(1180)から寿永二年(1183)の間に作成されたといわれる「一品経懐紙」は、寂蓮(じゃくれん)・藤原頼輔など十四人分が残っており、現存する和歌懐紙では最古のものである。その中で、西行は薬草喩品(やくそうゆほん)を題として二首の和歌を詠んでいる。彼が生涯に詠んだ歌は二千首以上あるにもかかわらず、現存する懐紙が他にないことを考えれば、この懐紙はすこぶる貴重なものである。 なお、懐紙は紙背に仏書が書写されている。伝来の経緯を考えるうえでは重要な点であるが、版刻は和歌のみとしてある。 ただこれとても、か細い筆線を再現するため、何枚もの版木を作り、重ね摺りしたものであるという。日本の伝統工芸がいかに高い技術を兼ね備えているか、改めて驚かされたことを付け加えておく。 さいごに、西行の筆跡について述べておこう。懐紙の作成年代からすれば晩年の筆跡ということになるが、流麗な筆遣いはまったく老いを感じさせない。また、「書は人なり」とあるように、書はその人のイメージを形作る。少し丸みのある細くしなやかな筆跡は、桜を愛でたという人となりがそのまま表れているようにみえる。これはあくまで私見であり、イメージは千差万別。ぜひとも、各人がこの懐紙から思い思いの西行像を描いてもらいたい。 [釈文・現代語訳] ふたつなく みつなきのりの あめなれと いつゝのうるひ あまねかりけり (二つあるわけでなく、ましてや三つもない、一つしかない仏の教えではあるけれど、三草二木すなわちさまざまな衆生を潤す雨となって、広く行き渡っているのだなあ) わたつうみの ふかきちかひに たのみあれは かのきしへにも わたらさらめや (大海のように衆生を救おうとする仏の広く深い願いに縁があったなら、あの岸辺にも渡るようなことがないだろうか) |
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西行 略年譜 1118年(元永元) 父佐藤(藤原)康清、母源清経の娘の子として生まれる。藤原秀郷(ひでさと)の子孫。俗名は佐藤義清(のりきよ)。 1137年(保延三) 二〇歳頃 鳥羽院の下北面の武士として仕える。同年令に平清盛がいた。 1140年(保延六) 二十三歳 官位や妻子を捨て出家。法名は西行、法号を円位と名乗り、京都の東山や嵯峨に草庵を結び僧として修業。 1146年 (久安二) 三〇歳頃 この前後歌人能因(のういん)の蹟を訪ねる、また修業のために陸奥(むつ)・出羽へ旅立つ。 1149年(久安五) 三二歳 陸奥の旅から帰り高野山に草庵を結ぶ。その後三十年にわたって高野山に居住するが、京都にしばしば往還している。 1168年(仁安三)五一歳 崩御した崇徳上皇の白峰陵参詣と弘法大師の遺跡巡拝を目的に四国地方を旅する。 1180年(治承四) 六三歳 伊勢・二見浦に草庵を結ぶ。 1181年(治承五) 六四歳 この頃『一品経懐紙』成立。 1186年(文治二) 六九歳 東大寺大仏再建を目指す重源(ちょうげん)の依頼により、平泉へ砂金勧進を目的とした陸奥へ。途中鎌倉の源頼朝と面談する。 1187年(文治三) 七〇歳 京都に戻って嵯峨の庵に入る。この頃、藤原俊成撰「千載集」に円位の名で西行の歌一八首入集。 1189年(文治五) 七二歳 河内国(大阪府)・弘川寺に草庵を結ぶ。 1190年(文治六) 七三歳 歌の願いどおり二月一六日弘川寺にて示寂。 1205年(元久二) 後鳥羽上皇の勅撰和歌集として「新古今和歌集」成る。西行の歌九四首が選ばれる。 |
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