狩野芳崖 重要文化財「悲母観音」〈軸装〉 [ 限定200 部] 【仕様・体裁】 ホームページへ戻る |
狩野芳崖 重要文化財「序の舞」〈額装〉 [ 限定200 部] 【仕様・体裁】 ホームページへ戻る |
||||
人生の慈悲は母の子を 愛することなり。 観音は理想的な母なり。 万物を起生発育する 大慈悲の精神なり。 狩野芳崖 生まれ出づるみどり児に、生命の霊水を静かに注がれる観世音菩薩 。 頭上にきらめく「宝冠」を、御身には流れるような 「天衣」をまとって天上に立たれる菩薩。 その眼差しは永遠の慈愛をたたえ、 ほのかな微笑にはおおらかな温もりが満ちあふれています。 そして「宝冠」を持つ指先のなんという崇高な美しさ。 さらには、円光の中で霊水を受けようとする緑児(善財童子)。 一心に菩薩を見上げる幼い瞳は、清浄無垢な魂そのものです。 おさえた色あいの「金泥地」、日本画独特の淡いさまざまな色調、 五九歳の絵筆で丹念に描かれた情景は、 あくまでも清らかに澄みわたります。それは天上界はかくやと思われる。 母こそ慈悲、そして慈悲そのものの観世音菩薩は、人々の理想の母である。 近代日本画の父と讃えられる狩野芳崖が、死の直前まで全精力を傾けた不朽の名作が「悲母観音」です。明治 初期に日本美術を高く評価したA・フェノロサが、ヨーロッパの「聖母マリア図」に比肩する作品をと芳崖に 依頼した作品。完成後、岡倉天心が、「近世にこの絵画に比べ得る作品はない。過去の名画をはるかに超えてい る」と絶賛した。「悲母観音」は、芳崖芸術の帰結点であるとともに、近代日本画の出発点として位置付けるこ とができる。 芳崖の、母や妻への深い敬愛の心はよく知られていますが、妻の死後その心情はますます高揚しました。そ うした母性への礼賛がやがて仏の心に昇華され、創作を浄化して、この澄み切った美を誇る一代傑作を生んだ のです。完成間近に病に倒れた芳崖は、最後の金砂子の蒔き付けを盟友橋本雅邦にゆだねた。明治二十二年創 立の東京美術学校の初代主任教授が決まっていたが明治二十一年に六十一歳で死亡。東京美術学校に引き継が れた芳崖の芸術は、雅邦が中心となって横山大観・菱田春草・下村観山を育てることとなった。 狩野芳崖 (かのう ほうがい)文政11年―明治21年 長門(山口県)に狩野派の絵師を父として生まれる。本姓は諸葛、幼名は幸太郎。江戸に出て木挽町 狩野雅信に入門。同門の橋本雅邦とともに「龍虎」と称された。「狩野」の法の外に出るという意味 からつけられた雅号「芳崖(ほうがい)」の名の通り、抜きんでた技量と革新的な作品で、当時、日 本美術の確立を目指していたアメリカ人美術学者フェノロサの目に留まり、彼と岡倉天心の組織した 鑑画会の中心作家として活躍。天心らが開校の準備をしていた東京美術学校での教授職を任されてい た芳崖だったが、開校の前年、芳崖は61才で他界。「近代日本画の父」と讃えられた。 |
||||
Copyright 2006 Mainichi Art Shuppan Co., Ltd.All rights reserved