漂泊の詩人 今治市河野美術館蔵松尾芭蕉 真筆自画賛「はるもやや」 【木版画 限定250部】 梅の花ほころぶ朧月夜 【仕様・体裁】 |
||||||
ホームページへ戻る | ||||||
【読み下し】はるもやゝ けしき とゝのふ月と梅 はせを 印章[扇羽][尾鳳] ※この二つの印章は晩年の自画賛に芭蕉が用いたもので、「羽扇」と「鳳尾」それぞれ芭蕉の葉を意味する。 と四行割に句賛し、芭蕉の仮名落款の横に「羽扇」「鳳尾」の二印が捺印されている。 句の年代は、芭蕉の許六亭における俳画の遊びの際、許六と合作した梅月画賛のために詠まれたと思われる。元禄六年一月中旬頃の作。 句意は、月は朧(おぼろ)に霞み、梅は花をほころばせて、ようよう春らしい感じがととのってきたことだ。厳しい冬が過ぎて、ようやく春めいてくる早春の情景を月と梅の取り合わせで描き出している。 画賛として発想された作とも言われ、許六を画の師と仰いだ芭蕉が好んで描いた画題で後世、画賛句としてもてはやされ、自画賛、画賛として伝来しているが、本作品は数少ない真蹟自画賛として大変好まれている作品である。 原作 紙本墨画 元禄六年作 原寸法 32.8×42.2センチ 所蔵者 今治市河野美術館蔵 |
||||||
俳聖・芭蕉 松尾芭蕉は一六四四年(正保元年)、伊賀上野に生まれた。藤堂家の良忠と出会い俳諧に興味をもったのが十代の後半で、二十九歳で江戸に向かうまでの十年間に郷里上野と京都とを行き来して、俳諧の宗匠として当時有名であった北村季吟(きぎん)と交わる。その後江戸に住所を移して、多くの俳人たちと親交を深め、次第に新進の俳諧師として認められるようになった。 芭蕉が門人の李下(りか)から芭蕉の木の株を贈られ、それまで使っていた俳号「桃青」から「芭蕉」と号するようになったのが三十八歳。 四十一歳の頃に、生活のための点取俳諧に嫌気を感じ、また芭蕉が追慕する先人たち、杜甫・李白や西行の生き方に習い、東海道を上る「野ざらし紀行」の旅に出る。 芭蕉はこよなく旅を愛した。四十一歳から亡くなる五十一歳までの十年間は旅の日々であった。野ざらし紀行の後も、常陸(茨城県)の鹿島の旅、郷里上野・大阪から明石へと向かう「笈の小文」の旅から旅へ、旅をしながら句作し、句作しながら旅をする乞食行脚の漂泊の人であった。信州の「更科紀行」を終え、四十六歳の時(元禄二年)に曽良(同・そら)を伴い、江戸から東北・北陸を経て大垣までの「おくのほそ道 |